07
Mar
2004
吉本ばななの「哀しい予感」を借りて読んだ。文学で少女漫画的世界観を表現したような内容だった。貸してくれた子には「コインロッカー・ベイビーズ」を貸してあげた。「哀しい予感」は、吉本ばななが24歳のとき、「コインロッカー・ベイビーズ」は村上龍が28歳のときの作品だけど、内容はちょうどガラージとテクノのような違いだった。現実世界に則した悲哀と、アナザーワールド直結系の違い。
20歳の金原ひとみが書いた「蛇にピアス」も読んだけどなかなか面白かった。主人公の女の子は破滅的な道を猛突進しつつ、安易に想像しうる厳しい現実から判りやすいくらい逃げまくる。全く何も考えてないようにしか見えないし、いかにも大人が「最近の子はどうしようもない」と嘆くタネになりそうな内容でもある。けれど現実は、大人も子供も関係なく、現代社会自体が何も考えてないっていうのが実際のところだと私は思う。子供が減って老人が増え、年金も雇用も破綻して、温暖化も進み・・・数十年後には世の中全体がムチャクチャであろうことが火を見るより明らかなのに、その危機度と比例するくらいちゃんと考えてる人なんて全然いなくて、自分さえお金が儲かっていい家に住み、いい車に乗って、ステキな人と結婚して暮らせれば万事オッケーだとしか思ってない人がほとんどだ。高度経済成長期の後遺症だとしか思えない。いい学校に行き、ちゃんとした会社で働いてお金を稼ぐ、そういう種類の体裁を保てるかどうかが、善悪の普遍的判断基準であるかのように思ってる人が未だに多くて本当に困る。ほんとはみんな、テキトーでありながら必死に生きている。やり方が違うだけだ。「蛇にピアス」の主人公の女の子は、こういうやり方で、テキトーかつ必死に生きているのだ。それが判らなければちっとも面白くない話だと思う。けれど、ちゃんと判る人もたくさんいるから芥川賞を取ったんだろうし、多少なりともこの話にシンパシーを感じた私からすれば、それは救いのある出来事だ。
それにしても、文学者っていうのは割と日本では古くから、ロックンローラー的位置付けとして認められてるよなあ、とも思った。太宰とか芥川龍之介とかの時代から、破滅丸出しで生きてても「あの人はもの書きだから、、」みたいな感じで何故か認めてもらえる。私も書かなくては!(笑)
私は大学4年の時に、社会的出世よりも遊ぶことを意識して選んだ瞬間があった。それまで小・中・高・大と、忍耐と我慢の結晶で学歴と能力を得るために生きて来たけれど、明らかにそれよりも遊ぶ方がよっぽど勉強になると確信してしまった。だけど遊ぶことを選びながら結局のところ未だにそのはざまに居て、両方をとろうとしたり両方に拒絶されたりを繰り返してる。なんせ、遊びながらメシを食うのはラクじゃない。つまるところ、ダンス占いっていうのは、そういうことです。以上。
村上龍といえば、こないだ間違えてストレンジディズの2冊目を買ってしまったことで悲壮感が漂ってる次第。というか。コインロッカーベイビーズを貸すところがすごいですな。
文学者がロックンローラー的というのは、おそらくそうなのだと思いますが、なんだろう、知的評価の差というものが扱い方の違いに現れている気がいたします。
結局のところ、世の中の一部を牛耳っていると思われる特権的階級の人たちにウケがよく、わりと自由にできているのが文学人で、そうでないのがロックンローラーな気がいたします。
いや、文学に限らず、ゲージツ家と目される人たちは全てその恩恵に与っているのではないかと。
坂本龍一がドラッグやってもあまり何も言われないのに対して、尾崎豊だとファン以外は冷ややかに見てしまう、といった感じなのでしょうか。
嫉妬すら感じることのできないほどの才能、というものがそうさせるのか、はたまた、現実批判よりも別世界への躍動を感じさせるところがそうなのか、ゲージツ家というのはそうやって古来より扱われている気がしてなりませぬ。
あ、本田君てば書いてくれてたのねー。今気付いた。
坂本龍一はよくて尾崎豊はダメ、とかはわかりやすいけど、「蛇にピアス」の場合は無名の金原ひとみが、芥川賞受賞とともに、なしくずし的にその退廃ライフスタイルまでが世間一般に認められちゃったとこが、なんかすごいなーと。とりあえず、彼女たちの受賞のせいで、文章を書く若者は増えるだろうし、それって相当いいことなんじゃないの。
村上龍は今「五分後の世界」を読んでます。コワいはなしでなかなか進みませんが、、、


